s

BIOGRAPHY
     
水垣雪絵★水垣カエル
yukie mizugaki/kaeru mizugaki

since1974 TOKYO

1974年1月、大雪の降る東京、代々木上原に生まれる。

           <幼年時代>

家の裏口に大きな土管が伏せてあり、その周りにできる高さ5センチ位の波のような霜柱をザクザクと踏みしめるのがとても好きだった。
そして清瀬のおじいちゃん(通称:ぱっちんじー)とスコップを片手に雑木林に野草を見つけに(取りに)しょっちゅう出かけていた。よく植物の名前をたくさん覚えたものです。この頃は植物図鑑の挿し絵を描く人になりたかった覚えがあります。
城山のカタクリやイカリソウ、ヒトリシズカ、ヤブレガサ、ウラシマソウ、国有地のナンバンギセル、フデリンドウ、ネジバナ、林と呼んでいた裏の 雑木林のキンラン、ギンラン、シュンラン、イチヤクソウ、三頭山のイワタバコ、それぞれの場所を四季にわたり散歩して、景色も、そこで見つけた野草も本当に印象に残っています。 本当に野草が大好きでした。

この頃クラシックバレエを親とともに習い、発表会でくるみ割り人形のネズミから始まり、とても踊ることや、お化粧をし衣装を着て舞台に立つことに目覚めはじめます。ヤマハの音楽教室からはじまったオルガンも、クラシックピアノにかわり、基礎曲ばかりを練習させられていました。(今思うと、本当に感謝です。大切なことたくさん教えてもらいました。)

ミュージカルが大好きで、チキチキバンバン、メリーポピンズ、足長おじさん、特にジンケリーに憧れて雨に唄えば、いかりを上げてを見てわくわくしてたなぁ。どれも何十回と繰り返し見てました。小学校6年生くらいになってフラッシュダンス、フットルース、ブレイクダンス1、2、サタデーナイトフィーバー、ダーティーダンシング、ソングアンドダンス、ダンサー、何回も見てました。

初めて自分で買いに行った音楽はナイロンズの「ライオンは寝ている」
でした。うちは父が演歌大好き人間なので、細川たかしや吉幾三、森進一オンパレードで、学校の縦笛で北酒場など吹いていた位 なので、洋楽はほとんど知りませんでした。だけど”夜のヒットスタジオ”でナイロンズを初めて聴いて、とても感動しました。次の日そく笹塚のラオックスにおばあちゃんと行って、そのテープを見つけた興奮は今でも覚えています。

家族では夏は海、冬はスキー、春、秋は釣りやドライブ、いろんな所へ行きました。本当に道楽一家だなあって思います。家族がこうなので、当然長女である私も超がつくほどの道楽人間になるわけです。家族は何もいわず、見守ってくれてます。ありがたいことです。

こんな私ですが、周りから見れば超おとなしい子供でした。 怒ることもしなければ、特徴とすれば、唄のピアノ伴奏をするくらいだったでしょう。だけど、ひそかに心はとてもあつくて、負けずぎらいで、ワイルド?だったと思います。ピアノの先生がとても厳しかったこともあり、耐える力がたくさんついていたと思います。ピアノで表現することがとても好きでした。タッチや指の運び、息づかい、一つ一つが自分のものになっていって、”あの感覚”を確かに感じていました。
だけど、まだ子供であったこともあって、厳しさに対しての限界がきてしまいました。ある朝、突然母に「つらい」と初めて行きたくないことを打ち明けました。花小金井に住んでいる先生は弾かなくてもいいからおいでと言いました。あまり泣くことのない子でしたが、何ともいえない気持ちになって、ぼろぼろ泣いた記憶があります。先生は、今はわかんなくてもきっと大人になってわかるよと言っていました。その時、全然わからなかったわけでもないけど、とにかくピアノが嫌いになったというのではらく、ただ辛かった。あの時は確かに限界だった。2つの紐のついたボールがカンカンと上下でぶつかっていって速くなっていって、音が大きくなっていって、終わりがない夢とか、逃げても逃げても逃げるしかない迷路みたいな夢とか、毎日のように見ていたなぁ。
そういえば学校のこととか、ほとんど覚えていないや。
だけど、本当に今になってピアノをやっていって、あの先生に習ってよかったなあって心から感謝しています。時間や、礼儀や、練習方法や、音楽というもの、ピアノで自分を表現するということ 、いろんなことを教えてくれていました。あの時やめたことは決して間違えではなかった。ひとつのくぎりを小さいながらつけたんだと思います。そして今に至れるわけですから。

中学時代はもっぱら通称:北京原人の青山先生率いるハンドメイドクラブ(部員私含む二人)で気に入った写 真のカレンダーをパネルにしたり、でっかい恐竜をはりこで教室めいっぱい作ったり、放送委員で”マーブルマーブル”という番組を作ったり、(この時初めてサンプラー機能付きのヤマハのポータブルキーボードを買って、”おはようございます”を連打したりして放送していました)あと中2の時、小学校の同窓会で私服姿のバレーボールのキャプテンに (中学でも会っていたけど制服だから)ひとめぼれ。ながーい片思いが始まります。そして、私の人生の方向を決定づける人に出会います。窪田宏さんです。

その頃、唄の伴奏はたまにするものの、音楽から少々遠ざかっていた私でした。ある時母と池袋の新星堂かどこかのレコード屋さんでふと母が手に取ったCDのジャケットにすかさずピンときてしまいました。母はエレクトーンを習っていたので、その人の名前と評判は知っていて、手に取ったようです。何枚かあって、オリジナル曲ばかりのアルバムと、スタンダードの曲がたくさん入ってるカセットがありました。ピンときた窪田さんが歩いているジャケットの方はオリジナルの知らない曲ばかりだったので、知ってる曲の入ってるカセットを買って帰りました。
「ELECTRIC FUTUER」という水中に鍵盤があるこれまたかっこいいジャケットのアルバム。ショックをうけました。かっこよくて。すぐにファンになり、音楽の楽しさを実感しました。受験の後にしなさいという母の意見もむなしく、エレクトーンの世界に、クロスオーバー、ジャズ、フュージョン、の世界に入っていくのであります。                                 つづく